不登校を何度も繰り返すのはなぜか

 

わが子が不登校になると私たちは学校に行けるように努力します。

まず、いつもの日常を取り戻したいからですよね。

そして苦労のかいあって学校に行くようになっても、

再び学校に気持ちが向かなくなるお子さんが少なからずいるのはなぜでしょうか。

 

子供の課題と親の課題が違う

 

たとえて言うと

見えないところで作業をする(面スタイルのX線)(基本) - SketchUp ...

 

四角錐を真下から見ると四角、横から見ると三角が見えますね。

 

親から見える形は四角、子から見えてる形は三角とすると

同じ四角錘を見ているようでも見る視点によって見えている課題も求める答えも違うということです。

 

なので親が学校に行くことが答えであったとしても子にとってはそれが答えとは限らないということ。

 

 

親も子も不登校(=四角錘)という同じ事象からお互いに異なる課題に取り組んでいるということを

知るのは大切だと思います。

 

まず自分の課題に気づこう

 

同じ事象を通して違う課題が出ていることがわかったら、取り組むのはやはり自分からです。

 

このブログにたどり着く方たちは、多分、お子さんのことはもちろん、

今までの人生で自分より相手の方を大切にされてきた方たちが多いのじゃないでしょうか?

 

自分はいつも後回しになってきませんでしたか?

 

儒教の教えに下ような格言にもみられる女性道徳の原則がありますが、

日本においても長く男性社会と言われてきた背景がありますから、

自分を優先するなんてDNAの中になかったかもしれません。

幼にしては父兄に従い,嫁しては夫に従い,夫死しては (老いては) 子に従う

 

 

そもそも人はみんな自由でいたい

 

自分の人生を振り返って

何度も何度も相手を優先して自分を犠牲にして尽くして辟易して疲れて相手を嫌いになって…

という経験をするのかというとそこに向き合う必要があるよと教えてくれているんです。

 

人はそもそも自由でいたいと望みます。

自由を知っているということですよね?

 

その望みを強烈にするには”強烈な不自由”を経験する必要があったということなんです。

 

もし、犠牲なったりや尽くさなかったら?

 

今、わが子の不登校に向き合っていて

もう嫌だ!と思うことを一切やめてしまったら、どんな怖いことが起こりそうですか?

 

罪悪感?

人の目(他人からの評価)?

子の将来?

 

それが私たちが見えていた一番最初に紹介した四角錘の”四角”です。

 

 

ある程度大人になれば自分で自分自身にできますが、わが子が幼いほど

どんな自分も受け入れられ愛されていると感じることが大事な時期があり、人は前にも道があると知ります。

 

お子さんはお子さんで何かに気づくためにおこっている出来事(三角)なので、

私たち親ができることは”お母さんみたいな人生を送りたい”と思われるくらい自分の人生を自分らしく生きることなのではないでしょうか?